阪神大震災水道施設復旧施工応援に行って

阪神・淡路大震災 救援・支援活動の記録

阪神淡路大震災における広島市指定上下水道工事業協同組合水道施設復帰応援班の記録を広島市により冊子にしていただきました。
是非、ご一読ください。

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    広島市指定上下水道工事業協同組合
    水道施設復旧応援班  水野 保之

      自宅の小さな庭には季節柄、可憐な花が一面に咲き乱れ、家の中では愛犬の寝息、平凡そのものの今、一年数ヶ月前の阪神大震災のことを思い出すのには多少の時間がかかります。
    この大震災直後の平成7年1月20日には、私たちの組合が神戸市水道局から広島市水道局を通じて緊急要請を受け、道路上の水道修理専門の指定工事店と組合による応援隊が組織され、いち早く神戸市へ派遣されました。 先発応援隊の方々の大活躍により、通水可能地区が急速に拡大していく最中、やはり神戸市から私たち組合に、一般家屋の水道修理要請がありました。宅地内水道修理班の一員として、 震災発生後約1ヶ月後の平成7年2月13日に神戸に入り、一夜明けて須磨区にある神戸市水道局の西部センターに赴くのですが、本当に地震があったのかなと思うぐらいの平穏さだった。 しかしその道中、須磨区に近づくにつれて状況は一変しました。
    「何だ!これは一体どうなっているんだ!」
    高速道路の橋桁は折れ、多くのビルは傾き、間近に見た一つのビルはダルマ落としではあるまいに、中ほどの部分がつぶれている。ペシャンコになった木造家屋、焼け野原になった街並み、 この世の地獄かと思うような光景に、「血が逆流するような思いとはこのことか」と恐る恐る車を進めて行きました。西部センターに到着。 駐車場に並んだ全国からの応援の車両、事の重大さに身震いしながら作業に取り掛かることになりました。

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    神戸での私たちの仕事は、災害で断水している家屋に、取りあえず蛇口を一栓でも出して、給水が出来るようにする作業でした。最初に行ったところは、半壊の家屋が密集している地区で、
    「おい、こんなところに人が居るんか」と同僚の横田君と思わず顔を見合わせました。西部センターで渡された修理先の伝票の住所には誰も居らず、隣の家から人の気配を感じたのか、
    「水道局の方ですか?私が電話したんですよ。隣の家の水が漏れるもんだから、私の家の方はチョロチョロしか水が出ないのよ」と言いながら中年の奥さんが出て来られました。
    「このあたりの皆さんは避難所に行かれて、私だけが残っているの。」
    「私、避難所が嫌いだから」と言われる。
    「寂しくないんですか?」と問うと、「ううん、息子が毎日寄ってくれるから」と会話を交わしながら、修理完了。
    「出る、出る、出るよ!ありがとう」と感激のこもったお礼を言われたのも本当に久しぶりのことでした。 この後も、神戸市滞在中に幾度も聞くことになる、「ありがとう」この短い言葉にどれほど勇気付けられたことか。広島から来ている私たち、また、他府県から来ている同業者の皆さんも同じ思いで毎日の作業にあたっていたことだと思います。

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      高台のある家の修理に行ったときのこと、見たところ建物自体も水道にも被害は無いようですが、その周りはかなりひどい状況でした。水道管が破裂したあたりは、門柱が倒れ、ガレージが陥没しておりました。大変に難しい修理になり、やっとの思いで昼過ぎに修理が終わりました。 奥さんに「水道が直りました。水を出してみて下さい」と言いますと、奥さんは蛇口を捻りながら、待望の水が勢いよく出てくるので、本当に嬉しそうでした。
    「奥さん、修理が終わったので帰ります」と声をかけて帰ろうとする私たちに、
    「家に入って食事をしていって」
    「いや、いいですよ」
    「でも、寒いから、今炊き出しを貰って来ますから、テレビでも見てて」と奥さん。 その暖かい言葉につい甘えて、上がり込む。久しぶりに奥さんから頂いて食べる温かい焼肉弁当と豚汁に、思わず「旨い!」と、二人して顔を見合わせました。 「久しぶりに旨い食事」と言っても、神戸に来てまだ二、三日のことですが。  ちなみに、毎日の食事は西部センターで頂く冷たい弁当ですが、でも、ここでは皆さん大変なんだと思いつつ頂くわけだが、このときの"温かい食事"は、やはり最高でした。 感謝。感謝。

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      神戸市は高台の多いところで、水が出ないとお年寄りには耐えれないことと思います。「やっと、来てくれたの」と迎えられて、水が出ない原因を調べていると、 隣り近所の人たちも二、三人出てきて、やはり「水が出ない」と言われる。どうやら配水本管の通水がまだらしい。
    「うーん、なんと言おうか・・・」事情を説明しても、一人のおばあさんは、座りこんだまま立ち上がろうともしない。 「今日は出るか、明日は出るか」と待ち焦がれ「やっと、水道屋さんが来てくれたのはいいが、水は出ない。もう限界だよ」 「給水車までは遠いし、この坂道をポリバケツで水を運ぶなんて、とても」・・・・小さな声で「すみません」 「あんたたちのせいじゃないよ」。 私たちの車を見送るうつろな目。 私たちにはなにもしてあげられない。・・・・くやしい。
    同じ須磨区にあるアパートでは。
    「神戸市水道局から修理に来ました」
    「おぉー!来てくれたか」
    大勢の人々の大歓迎を受けて、私たちも力が入る。 「広島からわざわざ大変ねぇー」
    「ねぇー、ねぇー、私ら被災者に直接、手拭とかを届けてくれるんだけど、貰ってもいいもんかねー」。と話し掛けるおばさんたちの話題に付き合いながら、修理完了。
    帰り際、「広島が震災に遭ったら今度は私たちが絶対行くからな」。と言う主人に見送られ、今日の作業は終了。

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      宅地内の水道修理をしながら感じたことですが、目ざとく私たちの修理車を見つけ、「私の家もついでに」「うちもついでに」と修理を迫られるが、全てに応じていては当日貰った修理伝票をこなしきれないし、 翌日の作業にも支障を来す。西部センターからの指示以外は断るのも仕事のうちか。それにしても、本当に胃が痛む。
    また、自分の食事さえ大変だろうに、「これ飲んで」、「これ食べて」とジュースにパンを差し出そうとしてくれる。恐縮することしきり。なかには、「たばこ代に」と現金を差し出そうとする人もおられました。 「砂漠でオアシス」とはこういう感じなのでしょうか。普段何気なく飲んだり、使ったりしている”水”がこれほど大事なものとは、今回の大震災により初めて気付いた私たち。 日頃忘れがちな心からの挨拶。決して独りでは生きて行けない世の中。

      阪神大震災は私たちに貴重な教訓を与えてくれました。私たちの水道工事の仕事も「縁の下の力持ち」。
    神戸から帰って、その自負を更に強く感じ、日々の業務に就いております。 一年と数ヶ月たった今も、いまだに不自由な避難生活を余儀なくされている方々も大勢おられます。
    神戸市の一日も早い復興と皆様方のご健闘を心よりお祈りしつつ、つたない筆を置きます。

    阪神・淡路大震災  救援・支援活動の記録
    平成8年10月発行
    発行  広島市